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院長紹介

院長 山下 匠

略歴

1985年9月18日 東京都足立区生まれ
2011年 自治医科大学医学部医学科卒業
東京都立広尾病院 入職(初期臨床研修医)
2013年~ 東京都立墨東病院 小児科 後期研修開始
2014年度 新島村国民健康保険式根島診療所
2015年度 利島村国民健康保険診療所
2017~2018年度 小笠原村母島診療所
2021年4月 南相馬市に移住
南相馬市立総合病院 小児科 入職
2024年6月 はらまちスマイルクリニック開業

資格

  • 日本専門医機構認定小児科専門医
  • 日本内科学会認定内科医
  • 日本アレルギー学会認定アレルギー専門医

所属学会

    • 日本小児科学会
    • 日本内科学会
    • 日本アレルギー学会
    • 日本小児アレルギー学会
    • 日本小児救急医学会

家族構成

妻、長男(2016年生)、長女(2020年生)、次男(2023年生)

子どもたちとお風呂に入るのが一日の終わりの楽しみです。

院長プロフィール

はらまちスマイルクリニック院長の山下匠です。このページでは私がどのような人間か、みなさまに知っていただきたいと思い、当院開業にいたるまでのマイヒストリーを書いていきます。
よろしければ、しばしお付き合いください。

プロローグ

私の出身は東京都足立区。福島県会津若松生まれの父、東京生まれの母との間に生まれました。6歳上の姉と4歳上の兄の3人きょうだいの末っ子です。

東京都足立区は地図で言うと東京都の「右上」、埼玉県と千葉県に接しているところです。「北千住」という街で幼少期を過ごしました。かつて「金八先生」のドラマの舞台となった街です。

幼少期~小学校時代

3人きょうだいの末っ子で、姉兄とは歳が離れていたこともあって、甘えんぼうで泣き虫な子どもでした。母が用事で仕方なく私を知人宅に預けた時には、母が戻るまで玄関でずっと泣き続けていたそうです(笑)。
当時の時代背景や下町的な地域性もあって、姉が幼稚園に迎えにきてくれることがありました。兄は色々な遊びを考えるのが得意で、私と私の同級生の相手をして河川敷に「秘密基地」を作ったり、いろんなことをして遊んでもらった記憶があります。

小学校時代はそろばん塾とスイミングスクールに通っていました。そろばんをやっていたおかげで、今でも暗算は得意です。スイミングスクールは同級生に比べると中々上達しなかったのですが、最後には最上級の試験に合格することができ、同級生も一緒になって喜んでくれたことはいい思い出です。

中学校時代

中学校では野球部に入部。元々運動神経が良い方ではなく、生徒会活動の方にのめりこんでしまったので、結局ベンチを温め続ける3年間になってしまいました(泣)。

生徒会活動では、役員のメンバーと協力してくれた同級生と一緒にアルミ缶回収をして、その収益で車椅子を購入して近隣の老健施設に寄付をするという活動をしました。この活動は、兄が同じ生徒会にいた時に始めた活動で、それを真似して実行した活動でしたが、リアカーを引いて空き缶を運んだり、回収業者でどのように処理されるのかを見ることができたり、ミニ社会科見学のような体験でした。

そして同じ時期、私の将来の目標を決める大きな事件がありました。私の伯父が急逝したのです。中学2年生の夏休みのことでした。亡くなる2週間前に、旅行先の長野で買った桃を私の自宅に持ってきてくれたのが、元気な伯父の姿を見た最期でした。当時は子供だったこともあり詳細はわかりませんが、急な訃報で伯父家族、私の家族、他の親戚も動揺を隠せませんでした。

このときに「家族・親戚の中に医者がいれば、何かあったときに少しでも力になれるのでは」とおぼろげに考えたことが、医師を目指すきっかけになりました。

高校時代

高校は地元に近い、東京都立白鷗高校に入学しました。中学時代に始めたランニングから長距離走にはまり、陸上競技部に入部しました。相変わらず運動神経は良くないのですが、練習を重ねると徐々にタイムが伸びるのがおもしろく、勉学はそこそこに部活動に精を出し、週1回は陸上競技場にみんなで移動して練習していました。個人の成績は地区大会で入賞した程度でしたが、同級生4人でチームを組んだマイルリレー(4×400メートルリレー)で都大会まで行けたことはいい思い出になりました。

走ることは今も、そしてこれからも続けたい趣味のひとつになりました。

大学受験~浪人時代

部活動ばかりの高校生活、高校3年の11月まで部活を続けながら勉強はそこそこにしかしていませんでした。そんな中でも、中学校時代に志した医師になりたい気持ちだけはより大きくなっていき、そしてなぜか受かるような気がしていました(笑)。第1志望校は母校となった「自治医科大学」。この大学は学費がかからないということもあり、姉が見つけて教えてくれました。

理想の医師像として、私たち兄弟のかかりつけだった小児科の先生がいました。この先生は地域の二次救急病院に勤務していて、その病院には内科など他の科もありましたが、乳幼児期からかかっている子どもたちが高校生や大学生になっても、何かあるとこの先生のところにやってくる、そんな先生でした。私は幼少期から丈夫な子どもでしたが、それでも体調が悪いときにはこの先生に診ていただいていました。そんな「地域をまもる医師像」が自治医科大学への志望動機を高め、同時に小児科医になるという目標を持つようになりました。

とはいえ、ろくに勉強していなかった現役時代、第1志望を含め医学部受験は全滅。化学の授業が好きだったこともあり、公立大の薬学部には合格しましたが、医学部を目指すという熱を消すことはできませんでした。
薬学部の合格通知と同じ時期に、予備校の受講料免除の通知が届きました。これをみて、両親に浪人したいと直談判しましたが大反対。まあ、現役時代のセンター試験の点数は医学部を目指すには大分足りないレベルでしたし、薬学部の合格通知も届いていたので両親の反対は当然だったかもしれません。母とは5日間くらいほぼ口を利かない時期があり、あのときの憔悴した母の顔は忘れていません。結局、両親が折れてくれて浪人生活が始まりました。

さすがに浪人時代は相当勉強しました。朝5時半に目覚ましをかけ、出かける時間までは参考書開くか問題集を解くかしていましたし、夜は遅い日には日付が変わるまで勉強しました。起きている時間はともかく勉強していたと思います。おそらく、人生で一番勉強していた時期だったでしょう。医学部に受かる保証もない中で目標を見失いそうになることもあり、その後の生活の中でもこの時が一番苦しい時期だったのではないかと思っています。

そして臨んだ、第1志望の自治医科大学医学部の受験。一次試験の筆記試験は現役時代より手ごたえがないものの、何故か楽な気持ちで問題が解け、時間を余らすことができました(現役時代は時間が足りなくなっていました…)。翌日に筆記試験合格者20名が発表されるのですが、手ごたえに反してなんと合格者の中に自分の受験番号があったのです。そのあとの面接ではあまりの緊張で最初に自分の名前を言う段階で頭が真っ白になり、ろくに話すことができなくなったにも関わらず、一次試験を突破、二次試験に進むことができました。二次試験では集団面接、個人面接、小論文とスイスイ進んでいきました。

自治医科大学の合格発表は、実は発表日の数日前に内定者に各都道府県担当の方から入学意思確認の電話が来ます。その電話で東京都庁に来るように言われ、数日髭もそらずにいた身なりを整え都庁へ向かいました。そこで説明を受けて書類を受け取り、その足で母の勤務先に行きました。母の休憩時間に待ち合わせて都庁に行った話をしたものの、母と二人疑心暗鬼になりながら合格発表まで待ちました。合格発表当日、母とパソコンで受験番号があるのをみて、やっと合格したと実感することができました。とても喜んだ母は、その翌日発熱しインフルエンザにかかっていることがわかりました(笑)。とても大きな心労をかけた後の安心した身体には、インフルエンザに抗う力は残ってなかったようです。

こうして、晴れて医学部へ進学、医師への道が開けることになったのです。

大学時代

自治医科大学は栃木県下野市(入学当初は河内郡南河内町)に位置します。各都道府県から2~3名ずつ選抜された学生がこの地に集まってきます。私にとってはじめて親元を離れ、学生寮での生活がはじまりました。この学生寮は個室なのですが、当時は個室から外に出るために「小ラウンジ」という部屋を通過しなければいけませんでした。8~10部屋で1つの「小ラウンジ」になっており、1年生は同学年だけで集まる形になっています。この小ラウンジで1年間ともに過ごしたメンバーは、他の同級生以上に深い仲になることができ、医師になった今でも交流が続いています。

学生寮で、はじめて学んだ「医学」は酔いつぶれた人に取らせる体位 (嘔吐した場合等に備え側臥位にする「回復体位」)でした(笑)。そして、医学より前に学んだのは「ビールの注ぎ方」、「乾杯の仕方」でした(笑)。そんなことも含めて、社会の中での礼儀を教えてもらったと思います。

大学でも陸上競技部に所属し、とりあえず走ることに没頭していました。高校時代とちがい、それなりに勉強もやっていたので成績もそこそこだったと思います(試験を落とさない程度、でしたが)。自治医科大学は他大学よりも臨床実習の期間が長く、当時としては珍しく大学4年生から病棟実習が始まりました。研修医の先生の後ろをついていくことで精一杯で、目まぐるしく日々が過ぎていきましたが、一つ心に残っていることがあります。

自治医科大学の学生実習では、学生にも採血や点滴などの手技を行わせてくれていました。脳神経外科での実習中、転移性脳腫瘍の患者さんに点滴をする機会がありましたが、学生同士で練習はしていたものの手技がうまくいかなかったのです。しかしその患者さんは「大丈夫、もう一度やっていいから。」と声をかけてくれました。その場は指導医の先生に交代してもらいましたが、そのあとに「がんばって」と声をかけていただきました。その言葉にうまく言葉を返すことができませんでした。

こうした経験を通して、医者として一人前になるための準備を少しずつ進めることができたのだと思います。

様々な出会いと経験を通してよく学び、よく遊び、よく走り、そしてたくさんお酒を飲みながら(笑)、充実した大学生活を過ごすことができました。

2011年3月、自治医科大学を卒業し、地元の東京都に戻りました。医師国家試験にも無事合格することができました。

初期研修医時代

初期研修は東京都立広尾病院で行いました。自治医科大学はへき地等の医療維持のため、卒業後はそれぞれの出身都道府県に戻り、在学年数の1.5倍の期間(6年で卒業すれば9年間)を勤務することになります。東京都のへき地は伊豆諸島・小笠原諸島という離島地区と、奥多摩地区などの山間地域がありますが、広尾病院は離島の救急患者等を受け入れる病院です。そのため、初期研修の間も離島から救急搬送されてくる患者さんや、精密検査や手術のために入院してくる患者さんとお会いすることが多くありました。この時の患者さんとの会話がその後の離島勤務において大きな助けになってくれた思います。

また、初期研修の最初の時期は東日本大震災直後だったため、被災地で受傷した患者さんとも多数お会いしました。しかし、研修医として自らのことで精一杯だった私は、被災地のことを考える余裕がありませんでした。後になって当時のことを振り返り、行動を起こしていくことにつながったかもしれません。

初期研修2年間、専門研修1年間の後は、離島に派遣されることが確定していたので、内科、外科、整形外科、産婦人科など各診療科での研修を通して、離島勤務で必要なスキルを貪欲に学ぶよう意識して日々を過ごしていました。比較的業務の少ない診療科の研修中には救急外来当直の先生とともに病院に泊まる回数が多く、研修指導の先生には心配されることもありました(笑)。身体はしんどかったものの、日々新しいことを学ぶことができ充実した日々でした。

その中でも小児科研修の3か月間はより意気込んで臨みました。病院にもよりますが、広尾病院の小児科での入院は、夜間ご家族が付添しなくてもよい運用でした。小さなお子さんたちは朝ごはんの時に看護師が介助していることがあり、私も朝早く行って診療以外に、食事介助したり泣いている子を抱っこしてあやしたりしていました。「子ども」というものを患者さんとの関わりを通して学び、その経験を通して小児科医になる決意を固めることができました。指導医の先生方はこんな私の様子を温かく見守ってくださり、時に的確な指導をしていただくことで、大きく成長することができたと思います。

小児科専門研修~東京都立墨東病院時代

東京都出身の自治医科大学卒業の医師は離島派遣の前の1年間、それぞれが希望する専門研修をおこなうことができます。私は内視鏡科での胃カメラ、腎臓内科での透析を数か月勉強した後、2013年7月から東京都立墨東病院で小児科医としての専門研修をスタートしました。

東京都立墨東病院は東京都の中心部から見て東側に位置し、その地域で唯一の三次救急医療機関(重症な患者さんが搬送されてくる病院)です。そのため、小児科としては専門病院ではないものの、重症な患者さんが搬送されてくることや、周辺医療機関から紹介されて受診にくるような病院でした。とても多忙な日々でしたが、様々な症例を経験し、多くのお子さんとの触れ合いを通して小児科医としてさらに大きく成長することができました。

翌年からの離島勤務に備え、土日に広尾病院の内科系、外傷系の救急外来を手伝いに行き、内科診療と外傷患者の対応(骨折の処置、脱臼整復、縫合処置など)についても勉強していました。まだ身体が若かったので、多少の無理をしてもそれ以上に学びを得ることができる日々となりました。

離島勤務の合間に墨東病院に1年間戻ってきたときには、NICUでの研修をすることができました。超未熟児のお子さんが多い病院だったので、小さなお子さんとそのご家族と関わる機会が多くありました。大変なこともありましたが、ご家族と一緒に日々成長していくお子さんを見守ることができたことは小児科医として大きな大きな財産です。

離島勤務時代

伊豆諸島の式根島に1年間、利島に1年間、小笠原諸島の母島に2年間の計4年間、離島診療を経験しました。いずれも人口300~500人程度の小さな島です。医療機関は島内に1つ、医師1名、看護職2~3名という医療体制です。私はその島のただ1人の医師として働いていました。そこでは小児科医ではなく、内科、整形外科、外傷、妊婦健診、乳幼児健診、保育園医、学校医、訪問診療、お看取りなど、「手術」と「お産」以外はほぼ何でもやらなければならない「総合診療医」として働きました。日本では一般的に高血圧などは「内科」へ、腰や膝が痛いときは「整形外科」へ、皮膚のできものなら「皮膚科」へ、などそれぞれの医療機関にかかることが一般的だと思います。しかし離島ではそれぞれ専門の医師はいないので、診療所の医師が何でも対応する必要があります。必要があれば、島を離れて本土の専門医療機関に行ってもらうことはありますが、「まずは自分で診療する」というスタンスで働いた経験は、当院を開業する上での理念につながるところがあります。

福島県への移住のきっかけ

日本小児科学会では東日本大震災後の被災地支援として、「福島県・宮城県・岩手県」の医療機関への臨時の診療支援を募集しています。その中に、相馬市の「公立相馬総合病院」での休日救急診療の支援募集がありました。

私の妻は浪江町の出身です。妻とは、東京都立広尾病院で一緒に働く看護師として出会いました。その縁から、相双地区の医療に興味をもつきっかけになりました。2017年11月に初めて公立相馬総合病院の診療支援に行き、小児科の伊藤正樹先生とのお話を通し、震災後から南相馬市立総合病院小児科が入院できない状態が続いていることを知りました。

私自身、離島での診療を通して、より地域密着の医療をおこないたいと考えていたこと、妻が地元に戻りたいと考えていたこと、南相馬市立総合病院小児科の現状を知ったこと、色々なことが重なって南相馬市に移住することを決意しました。

福島県への移住、南相馬市立総合病院への入職

2021年4月に南相馬市に移住、南相馬市立総合病院小児科に入職しました。現職だった萩原典之先生、私と同時に入職した溝口由美子先生と協力し、南相馬市立総合病院小児科では10年ぶりに入院病床を再開することができました。

開業の決意

南相馬市立総合病院小児科で入院病床を再開できましたが、日常診療の中で市内に小児科クリニックがないことが問題であると考えるようになりました。

2021年度時点、ベテランの内科クリニックの先生方が小児患者さんも診療してくださっており、我々も助かっている面が大いにありました。しかし、一定数の患者さんは相馬市に3つある小児科クリニックまで行って受診していることを知りました。

南相馬市立総合病院小児科では、通常診療だけでなく入院診療、救急診療、市の健診業務など複数業務をおこなうため、午後は基本的に予約診療と救急対応しかおこなうことができません。病院の機能としては仕方がないことだと考えていましたが、それと同時に、小児科医の診療を求める患者さんとご家族、午後に急な発熱等がある患者さんに対応する「小児科クリニック」の必要性を考えるようになりました。

小児科クリニックを開業する上では、
①理想とする医師像=地域で慕われる小児科医
②離島での診療経験を通して、「小児科」だけでなくお子さんの外傷やご家族の大人の診療もおこなえる総合診療医、「とりあえず相談できる医師」
というものを目指していきたいと考えて、開業に至っております。


ここまで、私、山下匠の出生から開業までをつらつらと書き記してみました。
最後までご覧いただきありがとうございます。
はらまちスマイルクリニックをよろしくお願いいたします。

院長 山下 匠

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